2012/03/04

昨日の続き。『鉛の霧』でこれはすごいと思ったのは、倒産して失意の社長が、公害も工員の中毒も出さない新しい工場のプランを思いついたといってRKBの木村の許へ現れたこと。これは、番組のせいで倒産してもなおテレビに出ることに意義を感じている、という説明では明らかに足りない。この人は、もう気質として夢を追いかけてしまう人間なのだ。そして、そういう人を発掘してしまう木村の資質も、疑いようがない。

「都市から郊外へ—1930年代の東京」展@世田谷文学館。フィルムセンターも1930年代の映画ポスターやスチル写真をいくつも提供している。映画のコーナー以外で気になった映画関連のもの:桑原甲子雄が撮った浅草の玩具映画専門店(孔雀活動)と支那事変ニュース映画上映ポスター。伊原宇三郎「トーキー撮影風景」。映画の撮影中を油絵にしたものは初めて見た。あと、稲垣知雄の版画は見飽きない。

さて、楽しみにしていた飯村隆彦コレクションの上映会「映画講座 クラシック&アバンギャルド」第2期最終日@三軒茶屋KEN。まず、鈴木治行さんの電子音楽演奏による『キートンの一週間』(1920年)8mmバージョンは、喜劇に電子音という組み合わせがスリリング。バスター・キートン独特の「笑いの先にある不安」と共鳴しているような。次が今回のお目当てだった晩年のキートン主演、サミュエル・ベケット脚本&監督(!)の『フィルム』(1955年)。16mm映写。自分の顔を決してキャメラに向けようとせず、そそくさと建物に逃げ込む男。無人の部屋には、椅子とベッド、犬一匹と猫一匹の入ったかご、オウムの鳥かご、金魚鉢、壁には肖像画と鏡、それだけ。引き続きキャメラに背を向けているが、自分の姿も見たくないので鏡にも布をかぶせる。動物の視線も耐えられないようで、犬猫は追い出し(ここだけコメディ)、鳥かごと金魚にも布をかける。「フィルム」というタイトルも意味深長だが、「映画とは視線を浴び続けること」というテーゼを逆から照射する狙いだろうか。モンタージュは不器用だが1955年のアメリカにこんなアヴァンギャルド精神があったとは、と感心していたら、結末のクレジットで撮影がボリス・カウフマン(ジガ・ヴェルトフの弟。『ニースについて』もこの人)と分かってびっくりした。

休憩時間をはさんで、飯村隆彦の『フルクサス・リプレイド』。1960年代ニューヨークの前衛集団フルクサスのパフォーマンス作品を再現したイベント(1991年)の記録ビデオ。五重奏演奏中の音楽家たちを、周囲から出て来た連中が包帯でぐるぐる巻きにするというオノ・ヨーコ作品。包帯でぎちっと固められたミュージシャンたちは最後には演奏不能、自分で動けなくなって、人に椅子ごと引っぱられて退場…。会場は爆笑の渦に。そして、変な出で立ちでヴァイオリンをバキバキに破壊するナム・ジュン・パイク。ひとりひとり自分の持っている新聞を同時に大声で朗読するという「音楽」。新聞や紙くずをみんなでびりびり破いて、それを観客にも投げて、観客もそれをびりびり破き始めて場が混沌としてくるのも「音楽」。ああ、永遠に遊び足りないオトナたちよ。

これはクォリティの高い、得難い企画だった。さらなる続篇を期待。


(この写真は再現の時のではなくて1960年代のもの)