2011/07/10

日曜当番ではないが職場へ。その前に、どうしても見なければと東京都写真美術館「ジョセフ・クーデルカ プラハ 1968」へ。ワルシャワ条約機構軍による「プラハの春」弾圧の記録写真、クーデルカの代表作がついにお目見えである。私のこれまでのクーデルカ観は、ヨーロッパのとりわけ辺境の寂しさを生きる人々を、感傷で包むことなく捉えた写真家というものだ(その印象はフランスの「Photo Poche」シリーズによるところが大きい)。ここでは、都市の真ん中に居座るソ連の戦車に対峙し、ある特別な数日間を経験したプラハ市民の威厳と失望が生々しく収められているが、やはりその佇まいはジャーナリズムとはほど遠い。「人間の顔をした」その人間たちの顔に視線が吸い寄せられる。

色川武大「生家へ」読了。退役軍人の父親と葛藤し、生まれ育った家に呪縛されながら屈託の日々を送る青年。現実のことと夢の中のことが並列して書かれているが、夢の方も本人の中ではいちいち具体であり、それが「シュール」では済まない重量感につながっている。「屈託がない」という言葉はよく使うが、その「屈託」自体を探求することは普通ない。色川は生きることのすべてに屈託し、自身の屈託ぶりにも屈託しないではいられない。それが色川の無頼の放浪生活を支える生理的な背景であったろう。放浪時代の彼は、一度映画の仕事に就こうとしたが、履歴書を忘れてしまったという。それでも、遊んでゆけと言われて、バリケード封鎖中の撮影所(ならば東宝だろう)に一週間ほど居候したそうだ。彼はどんな顔をしてうろついていたのだろうか。