車中で思う

快晴のトリノから曇天のパリへ戻る。イタリア人の多くにとって、ニホンなんて日頃は意識の端っこにもない国だろうから、ちょっとした話でも面白がってくれる。「スパゲッティ・ウェスタンを日本ではマカロニ・ウェスタンと呼ぶ」程度の話題で大いにウケてしまっていいんだろうか。ややセコい話だが、博物館のコレクションの概要を聞くと、本来は管理と活用法を学びに来たのだが、つい「日本で展覧会ができるかな?」という目で見てしまう。しかし突然東京で「フランチェスコ・ロージ展」をやるわけにも行かないだろう。『シシリーの黒い霧』は素晴らしいけど、こちらにはこちらのコンテクストがあるわけで。「エリオ・ペトリ、日本じゃあんまり知られてないんですって!」。まあ、こういう落差が面白いんだけど。それにしてもトリノは日本人の姿のない都市であった。

このブログ、なんだか楽しそうにしてやがる、と自分でも思う。一つヒントになったのはシネマテークの公式サイトからもリンクされているセルジュ・トゥビアナ館長のブログだ。去年9月の来日報告のなんと楽しそうなこと(何を食ったかまでは書いてないけど)。この旅も徐々に終わりに近づいている。「映画関連資料」と「デジタル化」という二つのテーマを提げてきたが、前者については「かなわん」というのが正直な感想だ。ヨーロッパにとって映画は突然生まれたものではなく、従前に存在したあらゆる文物の歴史を背負って誕生したものだ。しかし欧米以外では映画は「伝来」したものであり、そこに在来文化を事後的に接ぎ木してきた。興味深さの点ではどちらも面白いのだが、こと映画資料に関してはその差の意味するところは大きい。「リュミエール直前」「エジソン直前」の光学的娯楽の世界がいかに豊かだったか、19世紀のポスター芸術がいかに成熟していたか、それらを無視して映画誕生以降だけを考えるのは不自然なのだ。

しかしそこを理解した上でも、映画資料が「映画」と「人間の日常生活」を結び付けるマテリアルであることに変わりはない。今の日本の映画言論に欠けているのは、過去100年以上にわたる私たちの暮らしのモードとして「映画」を捉えることである。私の過去に書いた雑文の中で、比較的反応があるのはやっぱり個々の映画を評した文である。しかし、あまりにも明白だが、私の映画評など大したことはない。批評は他の優れた方々に任せておけばよい。私が関心を抱いてきたのは、研究者の論文とは別のスタイルで、映画にまつわる言論の形をもっと多様にすることである(「未来」の連載もそのつもりで書いた)。そのために、非フィルム資料が雄弁な素材であることは間違いないだろう。

先日の日記に書いたグラウベル・ローシャのポスターを。かっくいー。けど本物を見ないと涙は出ません。