2011/12/21

鈴木義昭「昭和桃色映画館」を読んでいると、ピンク映画と一般映画を分ける慣習というのは自明でも前提でもなくて、ピンクはあくまで一般映画からの分岐としてスタートしたという事実がよく見えてくる。それがいちばんよく分かるのは、香取環や内田高子といったピンク黎明期の女優の言葉からだ。黄金期日活のニューフェイスだった香取環は、成人映画へ転身してからずっと後、ロマンポルノを始めようとした日活から誘いを受けたが、どうして古巣が今さらポルノ?という疑問から再度の日活入りを断り、結局は後輩の白川和子がロマンポルノのスター=団地妻になった。向井寛に至っては、ピンク映画をヌーヴェル・ヴァーグの次の運動だと言っていたそうだ。当時はそんな感覚さえあり得たわけだ。

パリの名画座でジョゼ・ベナゼラフの映画を観た時、「いかにもフランスらしい無頼インテリ系ポルノ映画」という色眼鏡で観てしまいがちだったが、この本から立ちのぼるニホンの初期ピンク映画の匂いも、洋の東西を越えてこれとほぼ同じではなかろうか。さっと読める本とはいえ、「昭和桃色映画館」は映画史の書き換えに資する可能性を秘めている。