2011/10/11

昨日深夜、山形より戻る。床に入るなりひどい寒気がして、わが発熱を知る。今朝起きて、まだ熱はありそうだったが出勤。こういう時は仕事をした方が治りが早い、はずだ。

というわけで、山形で観た作品ベストスリーは以下の通り。
第1位:『ある方法で』(サラ・ゴメス)。ハバナに住む若い男女。女は小学校の教師、男はスラムの跡地に建てられる団地の作業員。二人は経済的、知的格差にもかかわらず惹かれあうが、話は簡単にはそこに収斂せず、仕事をさぼって労働評議会で糾弾される友人や、道ですれ違った歌手の挿話へと軽やかに脱線。それでいて土着宗教とマチズモ、都市の変容といったアカデミックな主題もさりげなく交差、アニェス・ヴァルダを思わせる男女描写や「私自身を演じる」ジャン・ルーシュ的志向もエレガントに消化している。ここまでクールで繊細な映画が革命の島で生まれていたとは。
第2位:『祭りばやしが聞こえる』(木村栄文) 今回「わたしのテレビジョン」特集に触れて、多くの人が絶望の念に捉われたはずだ。大衆メディアであるテレビは、社会の持つ精神の自由度をそのまま反映する。テレビ・ドキュメンタリーがかつてこれだけ刺激的だったという事実は、現在の私たちはもはや自由な社会になんか生きていないんだという裏返しの宣告に等しい。その苦い認識を脳裏に、『祭りばやしが聞こえる』にただ笑い転げた。福岡のRKB毎日放送で活躍したディレクター木村栄文が、テキ屋の世界に迫った90分番組。テキ屋は労働で身を立てているからやくざではないが、その生活様式は堅気とも呼べない。ひとりひとりが一筋縄ではゆかない面妖な、しかし時には純な男ばかり。背中一面に刺青を彫った内気なたい焼き屋さんを銭湯まで追いかけ、自身も裸になって「天然色できれいですね」とマイクを向ける木村。「やくざとテキ屋はどこが違いますか?」と木村にマイクを向けられて、緊張して「分かりません…」と何度も答える山口組系の組長。これぞ自由の空間。
第3位:『光、ノスタルジア』(パトリシオ・グスマン) 天文学の時間、考古学の時間、現代史の時間という三つの時間軸が折り合わされている。南米チリで言えば、アタカマ砂漠の巨大な天文台が捉える宇宙、砂漠で発掘される古代人の骨、そしてピノチェト政権下の大量殺戮を忘却しないための抵抗ということになろうか。強制収容所では、脱走防止のために天文学の講義が禁止される。降雨ゼロの砂漠では政治犯として殺された人々の骨が発見されるが、そこには一万年前に住んでいた古代人のミイラも横たわっている。両親を政権に殺された幼い娘は、長じて天文学の仕事に心の安らぎを見いだす。大きな時間のうねりに魅入られる一本。

キューバ特集では、『加速する変動』上映の後、トラヴィス・ウィルカーソン監督とともにサンチアゴアルバレスについて語った。監督は、初めてキューバへ行った際に最晩年のアルバレスと面会を果たしたが、一本も観たことがないのに「あなたの記録映画を作りたい」と提案、「私の映画を観たことがあるか」と言われて「一本だけ観た」と後ろめたい嘘をつき、「それなら一緒に観ようじゃないか」とたっぷり試写してもらって実現したのだそうだ。いくら何でもクレイジーだろ、それ。最後は、アルバレスの最高傑作は『79歳の春』という点で意気投合して終了。

あと、キューバ映画ポスター展の実現は快挙。竹尾ポスターコレクション(多摩美術大学に寄託)のキューバポスターが山形で見られるなんて。今回のいちばんのヒットは、ポストカードにもなったラウル・マルティネス画「カミロ」(1969年)。最近はネットで買えるようなので、ニホンの皆さんもキューバの映画ポスターにどんどん惚れて、キューバの映画界を支援しましょう。

スタッフとして関わった「幻灯の季節2」は、映画祭という場ではとりわけ厳しい「固定画面のみ」という絶対条件をカバーした片岡一郎さんのよどみない話術に感嘆。『山はおれたちのものだ』は奥多摩山村工作隊の作品だが、1952年の大量検挙後という事情もあるのか、武闘路線よりも村民との共生を謳っていることが面白い。あと驚いたのは『憂国の詩人 屈原』の中で、屈原を失脚させるための陰謀が「セクハラ冤罪」だったこと。中国では紀元前からそんなことあったんですか。

テレビ・ドキュメンタリー特集の特設スクリーン。テレビを意識して、向こう側からのリア・プロジェクション(逆映写)である。画面はとてもクリアだった。関係者の努力に敬意を払いたい。テレビと思えば大きいが、映画のスクリーンとしては小さい。これは映画ではないんだよ、というメッセージにも読み取れて感慨深い。上映後のトークイベントをこのスクリーンの中でやってくれると最高だったが、そういう無茶な冗談は控えておこう。