蒲田ウェスタン

10月4日

昨日、この映画祭の創始者デヴィッド・ロビンソンさんに、自分の編集した「無声時代ソビエト映画ポスター」のカタログを贈呈したところ、今朝になって「どうしてこれだけのポスターが日本にあるんだ!信じられない!」と驚嘆のまなざしで話しかけてこられた。こういうプロ中のプロの方に言われるのがいちばん嬉しい。そう、このカタログは、このコレクションの価値をまず国内に向かって問うつもりで作られた。だが、同時にこういう国際的な反響を期待していたのも事実。袋一平は偉大だった。

この映画祭のコレギウムは素敵な制度だ。主に初期映画を研究している学生を各国から募集し、10名程度を選抜する。選ばれるとホテル代(朝食つき)と映画はすべて無料。講義への出席と英語のレポート執筆が課されるらしい。今年は、日本から初めて早大演劇博物館グローバルCOE研究助手の大傍正規さんが参加されている。今日などは、夕食をどうしようかとテアトロ・ヴェルディの前で悩んでいたら、コレギウムの引率の方に誘われて学生さんたちと食べることになった。同じテーブルになったのはラトヴィア、オーストリア、ドイツ、チェコ、ブラジルなど国籍もさまざまな若者。「なぜ松竹モダニズム映画では食事などの生活描写をしないのか」「サムライ映画の喜劇にはどんな監督がいるか」「日露戦争を扱った劇映画を教えてほしい」とか、面白い質問がどんどん飛んでくる。アルコールは入っても、ここで真剣に応対するのが今ここに私がいる意義なのだろう。ちなみにこの地方では、スプリッツというヴェネチア発祥の赤っぽい食前酒のカクテルがうまい。

今朝は、上映時間241分の島津保次郎『愛よ人類と共にあれ』(1931)でスタート。ラストの一時間は樺太の山火事で山林王の富豪が没落するという怒涛の展開になるが、その後父と子(上山草人と鈴木伝明)が和解するや否や舞台はいきなりアメリカ西部へ飛び、父子の和やかな新生活を紹介して映画は終わる(たぶん冗談で英語のインタータイトルが入れてあるが文法がめちゃくちゃ…)。このラストシーンは満場の客を例外なく驚かせたようで、みんな目を丸くして劇場を後にしていった。ま、ハリウッド・スター上山草人を主演に迎えてのサービスとか、蒲田撮影所のアメリカかぶれとか、映画史的な解説はできるけれども、それを超えた衝撃が走っているようだ。そして、演奏を終えた柳下さんには、割れんばかりのスタンディング・オベーションが送られた。ここの観客は、映画への深い理解に基づいた演奏を高く評価するし、何よりも4時間の演奏がいかに常軌を逸した仕事であるかをよく知っている。他のベテラン・ミュージシャンからも「まだ生きてるか?」と冗談を言われていたが、柳下さんは、本日をもって今年のポルデノーネの新スターとなった。

「フランスの初期喜劇俳優」特集でアンドレ・デード(役名ボワロー)の短篇盛り合わせ(1907-1912)。いかにも唐突な「変な顔」と「変なポーズ」。志村けんアンドレ・デードの遥かなる後継者なのでは?などと荒唐無稽なことも考えた。そして「ソビエト映画の三人の仕事」特集から、ミハイル・カラトジシヴィリ『軍靴の中の釘』(1931)。カラトジシヴィリとは、もちろん『鶴は翔んでゆく』のカラトーゾフの、グルジア人としての本名。その初期作品が観られるなんて出発前から興奮しっぱなしだった。ストーリーは、白軍の戦闘機の攻撃を受けた赤軍装甲列車があえなく立ち往生。伝令の兵士が必死で走るが、軍靴に使われていた釘で足の裏を負傷したことから結局間に合わず、列車の兵士たちは全滅。兵士は軍法会議で糾弾されるものの、釘を使うような靴を作った俺たちが悪い、と議場のみんなが認めて丸く収まる、というもの。鋭利なプロパガンダの中に走る詩情が見逃せない。仰角と俯瞰の鋭いコンビネーションはプドフキン以上かも知れない。

『軍靴の中の釘』を、ピアノとフルートとアコーディオン(!)で伴奏し終えたばかりのスティーブン・ホーンさんとお茶。とても穏やかな英国人。今年のボン無声映画祭では『モダン怪談100,000,000円』を弾いたよ、とのこと。いつか日本でも演奏してほしい。夜の上映、レイモン・ベルナールが百年戦争後のフランス史を描いた超大作『狼の奇跡』(1924)は、素晴らしいクォリティのプリントだったが演出はやや大味で退屈。かなり寝てしまった。ただピアノ伴奏は公開時の音楽の完全な再現で、厳かな空気はあった。

思うに、『愛よ人類と共にあれ』の時の島津は、この映画が遠い未来に外国で上映されるだなんて考えてもみなかっただろう。だが、あのラスト(=ボーナスシーン)はともかく、この頃の島津がすでに示していた文体の完成度は、すでに世界に引けをとらないものだった。それが今年ようやく明らかになったことを喜びたい。